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2016年7月12日

■神保町中華街の成り立ち 傅健興(新世界菜館・咸享酒店 代表取締役)

 神保町が中華街になったという一つの始まりは、1894年に日清戦争で清国が日本に負け、一足先に近代化に成功した日本について学ぼうと、1896年に清から13名の留学生を派遣することからでした。実は皆さんのイメージする中華街というのは、商業で発展した港町ですが、この神保町は唯一商売の町ではなく、学生の町として発展しました。最初の13名から始まって約40年間で述べ7万人以上の中国の留学生が神保町で学び、最盛期には1年間で1万人滞在したと言う記述が残っております。
 1896年の頃は、外国人がまだ決められた居住地でしか生活することが許されておりませんでした。そのため、留学生たちも神保町界隈しか生活することが許されず、このため長崎、神戸、横浜といった他の中華街のように商業の町としての発展ではなく、学生の町として発展したわけです。
 その3年後の1899年に外国人も自由に居留が許されることになって、中国料理店の維新號さんが横浜で雑貨商を営んでいたことから、最初に神保町へ進出してきました。お店はすずらん通りを九段下に向かって真っすぐの通りがあり、そこは昔「神田今川小路」と呼ばれ、そこの神保町寄りの場所にありました。
 当時この界隈に多くのレストランが進出してきておりますが、これらのお店は元から中華料理のお店だったわけではないのです。皆さんも海外旅行の時に覚えがると思うのですが、滞在していると習慣の違いから食事が合わないことがあります。中国では刺身のような冷たいものを避ける傾向があり、また焼くという調理方法がないので焼き魚も避けました。つまり留学生たちから見たら非常に粗末な料理を宛がわれて留学を強いられていたということです。当時の留学生、特に初期に来た留学生は官僚となるような名家のエリートたちですから、一層大変だったでしょう。その中で維新號さんのように生活雑貨を提供するお店が出てきて、そこの親父さんたちの作る中華料理を求めて留学生がやってくるようになり、やがてお店は食堂として発展していったのです。
 そうして学生中心の中華街として発展した神保町では、孫文や魯迅、周恩来たちが革命を起こす結社の設立するためにやってきて、その意味では現在の新しい中国設立時の重要な拠点であったといえるでしょう。その会合はレストランを中心に行われたことが文献で詳らかになっており、文化面でも面白い町です。
 また、今でこそ中国語は標準語が一般的ですが、この時代の中国には標準語がありません。中国は地域が異なると言葉も通じず、風習や食生活も異なるため全く話が通じなくなるのです。そこで誰か一人が成功すると、その人を頼って同郷の人が集まるようになしました。神保町では維新號さんが拠点を作ったため、漢陽楼さんや揚子江菜館さんも同じ寧波というルーツがあります。
 私の父の話となりますが、戦前に丁稚として横浜から神保町へ来て働いていたという経緯があります。残念ながら父の頃には留学生はほとんどおりませんでしたが、寧波の人と山東の人で作られたコミュニティは残っていました。しかし今ではそうしたお店はほとんど残っておらず、また中国人は日本人と同じで段々と同化をしていく傾向にあるようです、私の子どもも帰化して中国にはあまり興味はありません。
 留学生の住まいについてですが、当時のメインストリートであったすずらん通りより北側、広くは白山の方まで下宿があったようです。特に柔道の加納治五郎先生は教育者でもありましたから多くの中国人留学生を受け入れていました。
 また戦争になて留学生が帰っていくと料理店などが困ったかといえば、結局は商いをしていた人たちも一緒に帰りましたのでそれはなかったようです。しかし一気に中華料理店が引き上げてしまい、当時の様相がわからなくなってしまいました。昭和の初めに警察・消防が管轄していた職業便覧を調べたところ、支那そば・支那料理を出す店は140店舗ほどありました。今では考えられないほど多くのお店があったんですね。私も興味を持って調べるようになりましたので、神保町中華街について伝えていけたらと思います。
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